庄 内 の 釣 史 年 表



平成17年11月10日

庄内の釣りは何時頃から始まったのだろうか?そして誰が細くて強靭な庄内竿を作ったのだろうか?それで誰が釣っていたのであろうか?それぞれの疑問のすべてが、自分にとって長い間非常に興味のある問題であった。

 かつて酒田を代表する文化人であり且つ市の財界を代表した本澗祐介氏は、その青年時代の昭和初期に鶴岡の名竿師山内善作氏に竿作りを師事されていた。若年の頃より釣が好きで一度は上小路辺りで釣具屋を開業していた。然しながら太平洋戦争最中に本間本家の当主光正が兵役の召集により、当主不在になる為に従兄弟であった当主の執事にと要請で、釣具屋を廃業せざるを得なかった。それも束の間、終戦を待たずして、当主が亡くなり年端も行かぬ娘真子氏が、その後を継ぐ事になる。本間祐介氏は、本間家の存続の為にそのまま事業家へ道と転進せざるを得なかったと云う事情があった。
 終戦直後日本一の大地主であった本間家は、マッカーサー司令部の政策の目標のひとつが日本の財閥の解体と農地の解放であったが為に、農地の解放政策の第一番の標的とされている。そんな大難を一釣具屋の主人であった本間祐介氏は、米国の司令部と堂々と渡り合い、交渉を重ね譲るところは譲り、本間家が何とか裸一貫にならずに済ませる事に成功した。その間の事情は同行の記者であつたマーク・ゲインの日記を元にして作られた
1977年6月23日放送NHK特集『日本の戦後3 酒田紀行 農地改革の軌跡』(高橋幸治主演=本間祐介)で放送されている。その後、田地田畑の大を失ったものの宅地や貸家が数多く残っており、その不動産を元手に小作や農地に頼らない本間家の復興に着手し、近代的な組織に脱皮させ事業を起こすことに成功した。そしてそれらを無事成し遂げた結果、酒田及び庄内を代表する有数の財界人として大きく飛躍したのであった。後本間家関連会社の社長、役員と本間美術館館長を兼任しながら、その他市・県等の色々な役職をこなすと云う多忙の中、失われ行く釣竿やそれに関する資料の収集に努め、又釣に関する本を何冊か出版している。県の文化財保護委員もやっていたから、その中に庄内の釣りを入れて欲しいとの要望を提出した事もあった。
 生涯のライフワークとして庄内釣史なるものを作りたいと念願していたが、それを果たすことなく他界されている。誰かが、調べねばならない。庄内で釣をする者にとって、地元庄内の釣がどのような過程を経て成立したのか調べることは、一大責務であると考えていた。時間を得た今微弱ながら自分も何とかしたいと云う気持ちである。そんな訳で簡単ではあるが、庄内釣史の年表なるものを作りたいものとかねがね念願していた。以前から集めた数少ない資料を眺めながらどうしたものかと悩みつつ考えていた。先日加茂の水族館館長村上龍男氏にお会いした時に、自分も「庄内の釣史」を作りたいものとの話があった。そんな訳でこの際簡単ではあるが、現在の手持ちの資料を
HPに載せたいものだ何とか載せたいものだと考えた次第である。そして館長の本を出版するに当たって、そり原稿をお貸しした。


序   文
 文献で見る限り、庄内の釣りは1707年の支藩庄内松山(現酒田市松山)の殿様第二代酒井石見守忠豫の湯治中に奥方を連れての浜遊びの余興のひとつとしての釣に始まったのが、初見である。いくら浜遊びの余興での釣とは云え、殿様の釣は家来を大勢引き連れての釣であったから、当地の接待する側の浜の村人達の難儀は相当な物であったに相違ない。当然殿様の浜遊び遊びの余興が行われる度に、釣具の徴集が行われている。釣具のみか、その他釣り場の清掃から道路の補修など目に見えぬ負担を強いられた事が想像出来る。回を重ねる毎に浜遊びの余興のひとつの釣がいつの間にか家来の間に浸透し、自分たちも自然に釣りに出かけるようになっていた。その証拠に1840年頃の浜遊びの釣りの際には、まったく釣の道具の徴集が行われていない。と云う事はお供の武士達のマイロッド持参の釣となっていたのであろうと考えられている。秋保親友の「野合い日記」や陶山槁木の「垂釣筌」を見ても1800年前後の武士たちは自分で竿を作ることが当たり前のようになっている。暇を見ては竹取や竿作りに励んでいたようだ。その後竿作りの天才陶山運平が現れ、現在の庄内竿の作り方で製竿している。「垂釣筌」を書いた陶山槁木の弟で陶山家の分家であった彼は、生活する為の収入を竿作りや焼鈎作りに求めた。当然生活の糧のための竿作りは、優秀な竿を作る必要に迫られていた。この当時の作者の分かる竿での最古の竿は、この運平作の竿である。竿作りの技を明治の名竿師上林義勝に伝授し、焼き針の技を弟弟子の中村吉次に伝えている。彼の作った竿は運平竿と云われ、昭和50年代まで釣師の間で珍重された。彼の出た後、名竿を得るために大金をはたいても何とか得たいと云う風潮が出て来たとも云える。庄内においての主だった名竿の作者が、すべて士族に繋がる者であった事が注目出来る。



釣                           史
1707(宝永4)
庄内藩の支藩の松山藩主第二代酒井石見守忠豫(タダヤス 1657~1735)が温海温泉の湯治に行った際に"浜遊び"と称して釣りを行った事が、温海組の大庄屋本間八郎平衛の覚書に出てくる。これが文献による庄内の最古の釣の文献である。生類哀れみ令で有名な五代将軍徳川綱吉存命中(在職16801709)の事であるからして、面白い。この当時江戸で釣り好きの者が、釣りをしたことが発覚して牢屋につながれていた。東北も裏日本の庄内の様な田舎では、幕府の意向も届かずそんなに厳しくは無かったのであろう。
1716(享保元年)
豊原多助重軌(とよはらたすけしげみち1681~1751)の書いた日記「流年録」の中に「秋一日、安倍兄弟の誘いに依って加茂へ釣に行く。かしこにては宅右衛門といへる者方に一宿す。翌日も釣に出て、夜になって帰る」と出ている。ここに出てくる安倍兄弟とは、後三年の役に、源頼義・義家と清原氏に滅ぼされた安倍氏の末裔と称する家柄である。
1718(享保3)
この年の9月、庄内藩主第六代酒井忠真公(タダザネ 1671~1731)御一行110名が温海温泉に湯治に来て、1012日奥方同伴の浜遊びで磯釣りを行った。これが庄内藩主の殿様の釣の初見である。この殿様釣が余程好きだったと見えて、治世49年間の間に六回の温海湯治を行っているが、その都度釣を楽しまれた。また、殿様の釣の為のお留場(あらかじめ釣れそうな殿様専用の釣り場を作って置いた)の設定を本意でないとしたと云う逸話が残る。
1745年(延享2)
第七代庄内藩主酒井忠寄公(ただより 1704~1766)が温海温泉に湯治に来てやはり磯釣りに興じた。この時厳重な前触れがあり、釣具の徴集が各村々に命ぜられている。あぶらこ鈎150本、具糸170本、釣竿70(お相手釣竿とあり、殿様の家来の釣竿と思われる)等々が徴集された。
1747年(順延4年)
同じく第七代庄内藩主酒井忠寄公が温海湯治に来て、磯釣りを楽しむ。
1772年(明和9)
庄内藩主酒井忠徳(ただあり 1755~1812)が温海温泉に湯治に行く。この時は磯釣の為に鉛鈎400本、糸具150本、釣り場に三間のはしご、板の用意の事。御釣り場にては何者たりとも殺生を禁じている。その外釣竿、餌の調達を命じている。ただ面白いのは、回を重ねる毎に釣具などの注文がより細かくなって来ていることがある。
1772~1789(天明から安永年間)
この頃、垂釣筌に寄れば釣の天才生田権太(生・没不詳)が出る。釣の術に秀で、現在に残る多くの釣岩に名前をつける。庄内において泥鰌(どじょう)で鱸を釣る工夫をしたのは、この人であると云う。潮を見ることにかけては第一人者で、加茂浜の小高い丘より海を眺めて今日は釣れないと云って帰ったと云う逸話も残る。その日の?和(なぎと読ませる庄内独特の造語で、潮とは少し異なる)を見て釣岩を替えて釣るので釣れない日は無かったと云われている。当時の釣師たちは、皆その術に習ったと云う位に感化されたようだ。
因みに加茂港の北側に権太岩(権太場とも云う)がある。1814年に書かれた鶴岡叢誌の二十巻にも家中新町の生田権太が釣った岩と載せられているように、当時から知られていた。
1773(安永2)
この年の温海湯治の釣で始めて庄内藩主酒井忠徳の釣果が、記録されている。到着した翌日早速平島で釣をしたが、全く釣れなかった。その後風の強い日が二、三日続いた後でアブラコを二匹釣った。それを大層喜んで温海の大庄屋に櫓を作らせ、その上から餅と金子を撒いたと云う話が残る。その二日後、今度は舟を出して大漁で、その又二日後大岩川で鯛一枚、アジ20匹を釣った。殿様はその釣果を大層喜んで同地に翌日やって来て、また餅と金子を撒いたと云う。このキップの良い殿様は、思い切った藩の財政改革を断行して藩を立て直したと云う名君としても知られている。
1789~1818(寛政から文化年間)
この頃神尾文吉なる者が出て、大魚のみを狙って釣った。垂釣筌に寄れば「一大竿頭に魂を注ぎ、天蚕糸(てぐす=ハリス)は必ず棒すじのより糸、餌は必ず蛸・貝・蟹・鰯・蝦・まえ・フナ虫、降っても照っても、昼でも夜でも、磯に頑張り、大物を釣らなければ帰路につかなかった・・・これを天方の釣り(てんぽ=庄内弁で無鉄砲の意と云うが最近では聞いた事はない。転じて一か八かの釣で大物狙い一辺倒の釣の事を云っている)と云う」。この後、釣師は大方生田権太の技術派、神尾文吉の豪快派(大物狙い)に分かれる。ちなみに文化初年(1807)に神尾文吉は三瀬の立岩にて、三尺の赤鯛(真鯛)を釣り上げ、藩主に献上している。
1789年~(寛政以後)
樋越坂右衛門が油戸磯を榊原嘉門が由良磯を開拓する。現在、坂右衛門場と称する釣岩が残る。
樋越坂右衛門が釣ったと思しき釣岩が坂右衛門場として残る。
1800(寛政12)
庄内郡代秋保親身(400)の長子として秋保親友(1800~1871)が生まれた。早くより軍学を学び、後高崎藩の市川達斎に師事し1842年免許皆伝後、庄内藩の軍学師範となる。1847年郡代となり、1851年致道館で兵書の講義を行う。著書に「野合日記」、「操兵錬志録」、「海防錬志録」などがある。若い頃より釣を嗜み、竿を作った。几帳面な人らしく日記「野合日記」文化11(1814)から明治3(1870)まで付けている。その中に釣の関係他の事件や自らの思い等を書き記している。その中に「名竿は名刀より得難し、子孫はこれを粗末に取り扱うべからず」「竿に上中下の三品あり、その品に名竿あり、美竿あり、曲竿あり」「竿は長く細いを貴し」等の数々の名言が含まれている。その他釣行の様子や竹切りの状況等も事細かに記されているので、釣に関するの貴重な資料となっている。
1802(享和2)
藩より覚書が出ている。「家中の面々が、時折鳥刺しや釣に行くが、稀に遠方まで歩行することもある。これは武用の一助ともなる事である。」と。これは藩の公式な奨励に当たる公式文書とされている出来事のひとつとして捉えられている。
1804年(文化元年) 
この年庄内の釣りの歴史書とも云える「垂釣筌」を著した陶山七平儀信(~1872)が、庄内藩郡代陶山七平儀明の長子として生まれた。二十歳で家禄三百石を相続し、物頭、盗賊改め、普請奉行、郡代、奏者、寺社奉行を歴任した。後に槁木と号し、幕末の釣りの名人として知られた人物である。弟に庄内竿を完成したと云われている陶山運平(三男)がいる。その著書「垂釣筌」は加茂より由良に及ぶ「釣岩図解」の解説書として書かれた物で、庄内の江戸時代の釣りを知る上で数少ない貴重な資料のひとつである。なお槁木の嫡子儀春も著名な釣師として知られている。
1804年(文化元年) 
この年象潟大地震で海が隆起し、日本海の松島と呼ばれた象潟の景勝地の大部分が陸化する。幕末が小氷期と重なり寒かった事情により産卵が出来ず黒鯛の子(篠小鯛=シノコダイ)が釣れなくなった事を象潟の陸化が原因とされている。
つい最近まで寒くなると男鹿からも黒鯛
(通称大きな物は渡りと云い、子は渡り篠子鯛と云う)が大挙して南下して来ると云う風説があり信じられていた。
1809(文化6)
この年庄内竿を完成したという名竿師陶山運平(1809~1885 陶山槁木の実弟)が生まれる。家督を兄槁木が継いだために、部屋住みの彼は竿師を持って生活の糧とした。後に槁木が独自に研究し完成した焼鈎の技法(鶴岡地鉤)を教え、運平はその技法を竿師中村吉次に伝えた。陶山運平のもう一人の弟子に明治の名竿師上林義勝に製竿の技法をすべて伝えたという。作竿は文化より文久にかけての幕末に活躍し、現存する庄内竿の中で作者の分かる最古の竿(四間の苦竹の細い竿)が陶山家に残っている事でも有名である。
1810(文化7)
この年の八月以降連日のように加茂磯二歳が湧くと秋保親友の日記に記す。また、これまで三間の美竿を持っている人は少なかったのに、今は多くの人が持っていると日記に書いている。一方垂釣筌でも篠小鯛が少なく、大きいのが釣れると書いている。この頃からその傾向があつたのではないか
1814年(文化11
大泉叢誌第二十巻 下浜の図・坂尾宋吾(サカオソウゴ17631851)の依頼で黒谷市郎右衛門道寧17711845湯野浜より加茂に至る釣岩の絵図を画く。江戸藩邸元締役であった坂尾宗吾が文化6年(1806)江戸より下向の際、宮城県七ヶ宿関にて宿主斬殺事件を起こし、仙台藩と紛争になる。その為翌年家禄没収・蟄居の身となる。その後文政元年(1818)に至り許されたが、その蟄居の際大泉(鶴岡の古称で古記録には大泉荘とある)の古記録等を調べ上げ、後に以後二代(万年(ナガトシ)・清風(キヨカゼ)に渡ってやっと完成したのが、大作「大泉叢誌・全139巻」であった。詳しくは釣れ釣れ草33を見て欲しい。
1818~9(文政1~2) 
秋保親友の日記に依ればこの両年も8月の後半より、二歳の当たり年で一箇所の釣り場に夜の二、三時には三百人からの釣り人が集まったと書いてある。この頃の釣はもうすでに御家禄(藩士)、給人、町人など多くの釣り人で賑わっていたとの記述があり、この事からして文政年間に至りもう遊びとしての釣は武士だけの物ではなくなって来ていたことが窺える。なお、二歳は文政年間を通して、釣れていたらしい。現在でも鶴岡地区で云う人がいるが、この時代は当歳、二歳を合わせて篠小鯛(シノコダイ)と云う呼称で呼んでいる。
1827(文政10)
この年に次の覚書が出る。「御家中の面々鳥刺しや釣で遠くまで歩いて行くの事は、健康の為、又武用の一助にもなり大変結構だが、磯釣りに行って落ちたり、鳥刺しで場所争いをするようなことを度々耳にする。殿様のご意向に反することなのでお互いに注意しあうこと」
1827(文政10)
106日荒天の中蝦夷澗丸岩にて釣をしていた藩士小室平太右衛門、鈴木重兵衛の両名が波に浚われてそれが原因で溺死すると云う事件が起きた。
1828(文政11)
小室平太右衛門、鈴木重兵衛の両名遭難について3月に次のような達しが出る。「御家中の面々殺生の為遠足致し候らえば身体健やかになり、武用の一助にも相成り、一段のことに候らども、昨冬中小室平太右衛門、鈴木重兵衛の両名荒崎磯にて大波に打ち落とされ候類は、・・・・・云々」とある。
1833(天保4)
幕末から明治初年ごろに盛んに活躍した名竿師のひとり丹羽庄右衛門(藩士300 ・1833~1916)生まれる。刀剣および書画骨董の鑑定に優れた人物として知られている。竿師としても一流で長さ三間五尺で竹の太さ1.5cmという極限の細身の竿が現存する。細身の丈夫な竿を作ったことから、この人の作は標準竿とされている。代表作のひとつに戊辰戦争の難局を切り抜け、藩を存続させた功労者菅実秀(号を臥牛と称す)臥牛竿があり、致道博物館に展示されている。
1838(天保9)
9秋保親友が温海温泉の湯治に出かけ、ついでに釣を楽しんだ。西島での夜釣りで真鯛一尺五寸、一尺二寸五分、一尺五分、鯛子二、天口(メバル)六尾、ハチメ一尾の釣果で日記に「大勝負で心地よし。その楽しみは千金にも代え難い」と書いてある。秋保親友が三十三歳となる。山越え歩行の日帰りの釣行が少なくなり、この頃から温泉に長逗留の釣を行っている事に注目したい。
1839(天保10)
当時江戸藩邸の若殿付きの侍であった林治右衛門正中家の古文書の中から、若殿時代の酒井忠発(当時27歳 後十一代藩主となる)が、釣ったと云う日本最古の魚拓(摺形=スリカタ)「江戸錦糸彫りの鮒が発見されている。釣ったのは天保102月末酒井藩下屋敷近くの錦糸堀であった。
1840(天保11)
この年も秋保親友が温海温泉の湯治に出かけ、船釣を楽しんでいる。釣果はなぎで静かであったので、天口四十五尾、タナゴ十一枚。その後、長子と家僕の三人で釣に出かけ、船頭と四人の釣果は天口百四十尾、タナゴ五十四枚で「上獲」とある。
1842(天保13)
鳥刺し、磯釣りの加熱振りに藩庁より「仰せ出され書」が出る。「近来殺生(鳥刺し、磯釣り)に出て候族(やから)、甚だしく相成り、前日または宵の内より罷り越し、渡り鳥中は小屋掛けなど致し泊り折候儀も相聞こえ、もっての外よろしからず候。子弟どもへよくよく申し含ませ、己来、右体の心得違い、これ無き様至さるべく候。尤も先年より度々仰せ出され候儀も之有り、年を経候に付、右仰せだ去れ云々・・・・・」とある。藩主より藩士たちに「殺生を心得違いのなき様」にとのたっての通達である。この事について「野合日記」の作者秋保親友は「磯釣りに至っては、早出をしなければ遠いところの明けの釣に間に合わず、良い獲をする事は出来にない。尤も早出をしたからといって争いというのではなく、渡り鳥の殺生と趣意の異なるところがあり、夜目を馴らす事は夜戦や夜候(夜の斥候)の助けとなる武用の一助であるから、夜釣り、明釣は論外と云うが、しかし、自分たちの若い頃と比べれば、今はおびただしい釣り人で、釣り場の争いも起こるだろう。広い大海の一釣り場を争うのは下手釣、上手の笑い種となる。我が子孫たち笑わるる事、争うことしてはならぬ」と戒めている。
1847(弘化元年)
名竿師平野勘兵衛(二十石弓師 1847~1896)がこの年生まれる。主に幕末から明治20年頃まで竿作りで活躍した。明治初年頃、にべの骨で作ったという弓師が使う独特な接着剤で孟宗竹の皮と身を交互に四枚合わせした彼独自の合わせの小竿を作っている。この竿は大きな魚が釣れても、直ぐに真直ぐになると云う彼独特の作りであるが、余りにも高度な技術の為かこの竿の後継者はいない。これ以後、僅かに酒田の中山賢士が復元して見せたくらいである。
1850(嘉永3)
11代庄内藩主酒井忠発公(ただあき 1812~1876)が温海温泉に湯治に行った時には、もう釣道具の徴集はしていない。この頃になると各自釣具を持参しての釣を行っている。この時の湯治では釣に熱が入り、実に七回もの釣行があつたと云う。又、熱中の余り、暗くなるまで釣をして松明を灯して宿に帰ったと言う記録が残る。
1854(安政元年)
明治を代表する竿師上林義勝(七石二人扶持 1854~1938)生まれる。若かりし頃中村吉次と共に陶山運平から竿作りを学び、後に明治の名竿師と云われた人物。鶴岡の致道博物館に名竿榧風呂四間一尺が常時展示されている。榧(かや)風呂の謂れは、将棋盤を作る高価な木で作られた風呂と交換したと云う逸話から出たものである。その後、この竿は酒井の殿様が欲しがっていたと云う話を聞いた豪農が、献上したとの事である。また風呂にまつわる竿がもう一本あり、オッコ(津軽ヒバのこと。当時ヒノキの風呂は10~15円であったが、おっこの風呂となると30~35円もしたとの事)の風呂(僅か十一尺の小竿で、高級ヒバ材で作られた風呂と交換した。当時ヒバ材は檜の三倍もの価格だった)と呼ばれている。ともに今日の価値で云えば40~60万は下らない竿と云うことがいえる。とても好事家でなければ、買えない竿である。この人の竿はかなり多く出回っているが、駄竿は一本もないことでも有名。庄内の釣師、垂涎の竿作りの名人であった。
1855(安政2)
松森胤保1825~1892)  1862年家督200石を継ぐ、翌年支藩の松山藩付家老となり、幕末の混乱時に藩の指揮を取り活躍する。藩主よりその功により松守の姓を賜ったが、恐れ多いと松森にしたと云う。動植物、物理、化学、工学、歴史、考古学などあらゆる分野の長じ、著書700冊と云う。彼の書いた「百年旧談」の中から発見された、この「川鮒」の魚拓が一時は最古の魚拓とされていた事がある。
1857(安政4)
最上川南岸の新堀村の加藤某が鯉を釣ったと云う摺形(魚拓)が現存する。
1859(安政6)
竿師中村吉次(六石二人扶持 1859昭和初期)が生まれる。上林義勝と共に陶山運平に師事し、竿と共に焼鈎の技法を伝授される。主に焼鈎を作り、兄弟弟子の上林義勝より、製竿では劣っていたと云われているが、根っからの釣好きで実践的な釣竿を作ったとの評価がある。
1862(文久2)
この年陶山槁木(=陶山七平儀信)によって、1700年代後半から文久に至る庄内釣りの解説書「垂釣筌」が、書かれた。この本はこれ以前に上磯(加茂より由良)の釣り場を絵図にした「釣岩図解」を書いたが、その解説書として書かれたのが、「垂釣筌」である。又「釣岩図解」は現在散逸し、原本は不明。明治以降「釣岩図解」の模写の模写が数多く出回っている。これを元にし、釣岩の解説が釣具店他で発行されているので、どのようなものであったかが、おおよその見当がつくと云われている。「釣岩図解」では釣岩の名前や竿の出す場所などが事細かに書かれている。また「垂釣筌」の本を見ると、陶山槁木の生きていた時代の釣の状況や釣の考え方、代表する釣師達の名が出て来る。
1862(文久2)
秋保親友は天保13(1841)に41歳の時江戸に上り、上州高崎藩の軍学者市川達斎に師事し免許皆伝の後45歳で家督を継ぎ郡代となっている。軍学者として藩校致道館で兵書の講義、53歳で海防掛を仰せつかり、洋式大砲での軍事訓練などを行っている。この為に釣からは遠ざかっていた為か、彼の長年書いている「野合日記」に釣の記事が見あたらない。軍学指南を後進に譲ったこの年の八月と九月の二回、疲れを癒すかのように温海温泉の湯治に出かけている。そして九月は一ヶ月の長逗留し、同月12日奥方を連れて釣を楽しんだ。この時は小物少々とある。
1863(文久3)
氏家直綱が江戸は仙臺岸にて一尺一寸五分の剛鯛(黒鯛の事)を釣る。当時江戸の治安を守る為に作られた新徴組の応援の為、江戸に勤務していた御家中の子息達一行の一名である。ちなみにその黒鯛を釣った竿は、関東の釣瓶竹の先に、ウラ(穂先)を庄内のニガダケで継いだものであった。この当時江戸より釣瓶竹を取り寄せて、ウラを継いだ物が流行となっている。ただし、苦竹の竿よりも弱いとされていた。この魚拓は「鯛鱸摺形巻」と呼ばれている巻物に収められた中の一枚である。なお、「鯛鱸摺形巻」氏家直綱が文久2(1862)より慶応三年(1867)にかけて釣った33枚の魚拓である。
1867(慶応2)
この年、鳥羽絵を独学で学び独自の境地を開いた土屋鴎涯(1867~1938)が土屋伊織の子として生まれる。昭和82月当時釣具屋をしていた本間祐介氏の求めに応じて「時の運」天・地・人の三巻の画帖を著す。後に改めて門外不出として子孫に残す為にもうひとつの「時の運」天・地・人の三巻の画帖の他猫の巻を付け加え画いている。殊に時の運は明治末期から大正、昭和初期にかけての庄内釣を軽妙なタッチで風刺をこめ書かれた絵と文章で当時の釣を知る上で貴重な資料ともなっている。一方猫の巻の方は、釣をする子孫の為に釣の極意釣の道徳等を書いたものである。
1868年~(明治元年~) 
この当時の名釣師として、酒井忠篤・忠宝兄弟、酒井忠調(庄内柿の始祖)服部興惣、中村吉次、菅実秀、加藤副次郎、中村七郎衛門等がいた。大方豪快派に属している者多し。
1880(明治13)
酒田の釣界の長老中山賢士(1880~1967)生まれる。酒田町長中山英則の次男として生まれ、山形師範学校を出て初等教育で活躍。釣が好きで退職後竿作りに没頭する。平野勘兵衛考案の独特の四枚合わせの削り竿の復元を行っている。酒田の釣師の中では、早くから庄内竿を持参して飛島の大マダイの釣を行った人物である事でも知られている。釣のほか短歌を嗜むなど趣味多彩な粋人で号も丘下漁夫、手工、不飽庵、古武台主人、碧竿等を持つ。
1881(明治14)
酒井忠宝(酒井家12代藩主、9代酒井忠発の子)が、この年の十月三日越後脇川村で一夜にして釣上げた大真鯛二尺八寸五分を始めとした魚拓十枚もの大物を松濤公獲魚拓巻として致道博物館に展示されている。魚拓の反対側にある竿の陳列棚に無名ではあるが、見事な愛用の長竿がある。
1887(明治20) 
最後の名竿師と云われた山内善作(1887~1940)生まれる。陶山槁木の孫陶山儀成の長女まさを母に持ち、竿師山内作兵衛の子として育つ。その血統の良さからか名竿を見て独自の技法を会得したと云われる。大正から昭和初期にかけて盛んに作竿したが、若干53歳の若さで無くなった。庄内竿の継竿で知られている大八木式真鍮パイプ継を更に工夫し、現在も使用されている螺旋真鍮パイプ継に変えたのは、彼であった。
1899年(明治32年)
鶴岡町新屋敷町の中村糸吉氏が、「磯図」と題する釣岩の絵図を写本している。このような絵図が当時からで廻っていたのだろうか。誰が書き始めたかは、不明。察するに黒谷市郎右衛門道寧の下浜の図や陶山槁木の釣岩図解の釣岩をひとつずつ分解し表現した物と推察出来る。釣岩の数約130ケ所余となっている。これと同じような物が明治42年及び昭和13年の写本が鶴岡の資料館に存在している。
1907(明治40)
本間祐介氏(1907~1983)生まれる。父は鶴岡の服部家より酒田の大地主本間光輝の養子となり、その後分家した父敬治の次男として出生、酒田中学を卒業後二松学舎専門学校(今の二松学舎大学)に入るものの、中退し鶴岡の竿師山内善作に師事した。その後船場町にて釣具屋を開業する。戦時中本家の要請に応じ後見人となり、戦後の農地解放の困難を乗り切り、現在の本間家を存続させている。酒田を代表する財界人、文化人として知られ、こと釣竿の鑑定にかけては右に出る者はいなかったと云う人物でもある。この人の竿は通称本間竿と云われているが、竿師としての活躍期間が短かった為数が少ない。陶山槁木の「垂釣筌」、土屋鴎涯の釣の鳥羽絵風の戯画「時の運」、「鴎涯戯画」などの復刻を手がけ、自らの著作に「庄内竿」、「庄内釣話」などがある。
1909年(明治42
鶴岡町十日町の大八木釣具店の大八木得吉氏が、湯野浜より三瀬に至る釣岩を画いた呉竹著「磯釣り案内」を印刷し発行する。
1919(大正9)
羽越線に汽車が開通。この為鶴岡から南側の由良磯以南に通う釣り人が一挙に増加する。一番列車が午前3時発で、休日には長竿を持ち込む釣人で賑わったとされる。次第に長い竿を汽車に持ち込むことが、不便だった為大八木式パイプ継による、継竿が考案された。
1920~1925(大正末期の頃)
酒田の中山賢士、本間祐介等がイトウを釣る為の回転リールを北海道より取り寄せニガダケのずんぐりむっくりの竹にガイドを付けて、中山賢士考案の酒田ウキを使い最上川の鱸を釣る。これが評判となり、後に車竿と呼ばれ定着した。グラスロッドのリール竿が普及する昭和40年頃までは、この車竿で遠投する釣はすべてこの竿で行われている。
1938年(昭和13
1938年(昭和13) 鶴岡の菅原釣具店より「自湯野浜至加茂釣岩図面」が発行された当時釣師、竿師として有名だった山内善作に作らせたものである。
1940(昭和14)
この年の3月庄内釣道連盟より「釣公徳」なるものが発行された。その序で当時の熊田鶴岡市長は、釣のマナーを守り精神の修養並びに体位向上をと述べている。庄内浜の磯釣が益々盛んになると同時に、日華事変の最中でもあり更に太平洋戦争の前々夜と云う時代背景が体位の向上の一言を述べているように感じさせている。この一言は、鶴岡より徒歩での山越えで釣行(鳥刺しと釣行に行くことは江戸時代遠足とも云った)は、武用の一助になると云われていた事と正に重複する。
1943年(昭和18
磯図と称する釣岩の絵図のひとつである「荘内沿岸釣場絵図」を余目町の花岡氏が模写す。釣岩絵図もこの頃になると、かなり実物に近いもので綺麗に仕上がって来ている。釣岩の数約190ケ所余となっている。
1945年~(昭和20年~ )
戦時中に大平に釣が出来なかったことから、戦後盛んに釣が行われる。そんな中、継竿を利用して、ピアノ線で竹に穴を開けた中通し竿が、考え出された。手元に簡単な同軸リールを付けた竿であるが、これは延べの竿と異なり、釣の技術の会得の大幅な短縮となった。糸の出し入れすることで、比較的に短時間で大物とのやり取りが可能となった事もあり、中通し竿が売れると共に庄内の釣が一大ブームとなっている。問題は延べ竿と異なり、竹に穴を開けることで竿としての寿命を短くなることから、竿として使える期間が大幅に短いのが欠点だと云う。それでも手入れ次第では多少の年月は、伸びるかも知れない。ある竿師の意見では、延べ竿100年以上、中通し竿50年以下と云い切っていた。もっともどちらも手入れ次第と云う所か?
1949(昭和24)
この年の4月に根上吾郎氏(根上釣具店の店主)上林義勝の名竿「富士号」と出あう。開店間もない店に地下足袋を履いた左官屋風の男が三間四尺五寸の延べ竿を担いで来て、「この竿買ってくれ!」と云って入って来た。良い竿だと思い何気なく売上金の中から、大枚千円で買い取った。この竿が、後でこの竿は上林竿で丹羽庄右衛門が、真鯛竿としては日本一と称し「富士号」と名付けて大事にしていた竿であることを、本間祐介氏に教えられて吃驚した。その富士号と名付けられた曰く因縁の竿は、酒田の掘切り(屋号)という人が、庄右衛門から米五斗俵五俵で譲り受けた竿であった。ところがその竿が余りにも長くと家に置く場所が無かったことで預けてあった先が、家を解体することになり左官風体の男が根上釣具に竿を持って来たのであった。
1952(昭和27) 
酒井家16代の当主忠良(ただなが)氏は、この年上林竿の名竿「カヤ風呂」を持って、鼠ヶ関の佐藤桃太郎氏と云う船頭の案内で弁天島の沖合いに鱸釣に出かけた。ところが、魚に竿ごと持って行かれた。それが翌朝竿尻が会海上に出ているところを、竿を探しに行った桃太郎氏に発見され、無事回収されたと云う。引き上げて見ると一尺六寸の見事な真鯛がかかっていた。殿様の竿と分かり、早速桃太郎氏は忠良氏に届けたところ、「魚釣りで竿を構える事は武士が刀を構えることと同じである。その竿を魚に取られたと云う事は、刀を取られたと云う事は相手に葬られると同じ事。武士として恥ずかしいことである。鯛は有り難く頂戴するが、竿は拾ったそちの物である。」と云ったと云う逸話が残る。そしてその竿はその後二人の持ち主の手を経て、現在致道博物館に展示されている。その返されて来た時「この事はくれぐれも他言無用」と云ったそうである。さすが昭和に入っても、殿様は殿様であった。
19558年(昭和303年)頃の111日 
今間金雄氏暮坪の赤岩で第一回目の黒鯛の湧きに出会う。湧きとは、集団で魚が移動する時に何らかの条件により、しばらく同じ場所に留まる。そんな時に餌を与えると我先にと群がり食う状態となる事を云う。金雄氏はこの珍しい湧きを釣り人生でなんと六回も出くわしているとその著書庄内の黒鯛釣りの中で書いている。普通の釣り人は湧きなどと云う現象を経験しないで終わる事が多い中で、六回とは恐れ入る。しかも何度か沸きを経験する内に、何時頃かその予測も出来たと云うからすごい釣師である。
1955年~(昭和30年代)
30年代の中頃から、グラスロッドが発売され後半には庄内全域に普及している。特に投げ竿とヘラ竿の改造中通し竿が良く売れていた。それまでの竹竿に比べると、比較にならないほど軽かったのを覚えている。ただ価格は普及竹竿より、高かったように記憶している。
1975年~(昭和50)
この頃庄内にオキアミが入って来ても釣り方が一変する。当初扱われたのは生オキアミではなく、半ボイルされた物で固いので主にブッコミ用に使われた。冷蔵会社に勤めていた連中が、生オキアミを買い込み、撒餌として使って見たところ予想外の釣果があり、瞬く間にこれが広がって、釣具屋でも生オキアミを扱うようになった。当時の価格は冷凍オキアミ一ケースでコマセ用の安いもので6~8000円からつけ餌用の極上品が10000円であったように記憶している。生オキアミの欠点は従来の蝦やマエなどに比べて、軟らかい事である。従って従来のバカを長く取る庄内釣りのやり方では、思い切り竿をあおり、餌を遠くに飛ばす事が中々出来ない。その為にバカを短くし、四間の竿が五間と云う様に竿を長いものを使うようになって来た。たかが餌ではあるが釣具を代えたと云う一大変革である。これを私はオキアミ革命、オキアミの変と名付けている。
1975年~(昭和50)
昭和50年に国産カーボン竿第一号「純世紀」がオリンピック社より発売された。この頃になると、グラスロッドの全盛で竹竿の販売は少なくなって来ている。そして、より軽く丈夫で細身のカーボンの出現は、竹竿の購入層を取り込み徐々にその普及は裾野を広げて行った。結果竹竿を作っていた竿師の廃業が出始め、2000年頃には僅かに数名となっている。少数ではあるが、こよなく庄内竿を愛する素人の竿師の方々がおられ、趣味で竿作りに精を出しておられる。時々講習会等も開いていたようである。
2004(平成16)
この年庄内竿の竿師の酒田の黒石釣具店の店主黒石昭七氏(明治から親子孫三代続く竿師の釣具屋で先代の弟子達が多くいたが、現在は竿を作っている者は誰もいない)、鶴岡の錦町の丸山松治氏(高齢の為、竿ノシのみで竿作りはこの数年やっていなかった)の両名が亡くなった。現在竿を作って商売としているのは、残念ながらたった一軒となってしまった。趣味で竿作りをしている素人の竿師はまだ結構いるが、竿師の方の後継者不在のままで一人また一人と亡くなられて行くのは返す返すも残念なことである